「江刺甚句まつり」の起源と歴史

 奥州市江刺区の中心市街地である岩谷堂地区は、享保16年(1731)の岩谷堂大火から明治39年(1906)までに7度の大火災にあったことから、人心は町の復興と火災防止を祈願し、貞観16年(874)開祖の秋葉神社例祭を火防祭(ひぶせまつり)としました。これを起源に祭りは華々しく行われるようになり、明治期は地上15mの大山祭り、大正期は仮装行列、昭和期は門付け踊り、昭和25年に42歳厄年連初参加、昭和35年から25歳、42歳厄年連が共に参加する祭りとなり、昭和49年に「見るまつりから参加するまつりへ」をキャッチフレーズに「市民総参加のまつり」へと生まれ変わり、毎年5月3日~4日に開催されている今日の「江刺甚句まつり」が誕生しました。
 11世紀の平安末期に奥州藤原氏の祖藤原経清、初代藤原清衡は37~38歳頃まで奥州藤原家の本拠地として岩谷堂の豊田舘に居を構えていました。藤原氏滅亡後は江刺氏が統治し、さらに江戸時代まで伊達藩の統治下にあり、藩の最北端の要地として城下町が形成され、北上川の舟運による物資の集散地として明治中期まで繁栄しました。かつて岩谷堂地区は、大火に見舞われることが多く、多くの商人が蓄財を守るため、争って蔵を建てた歴史があります。物資の輸送には、牛とともに馬産地東北として大いに馬を用い「江刺追分」と称する馬小唄が盛んに唄われました。現在この歌は当地区では絶滅しましたが「江刺甚句」は現在でも唄い踊り継がれています。

「江刺甚句踊り」の発祥

 江刺甚句まつりのメインとなる「江刺甚句踊り」には南部領の踊りの特徴がないので、伊達藩に属して以降の踊りであることは明らかであり、宮城県宮城町大倉の「定義あいや」は、やはり男女1組で踊りこれを「あわせ踊り」と呼んでおり振りもかなり似ていることから、伊達藩の「定義あいや」から「江刺甚句踊り」が派生したのではないかと思われます。「江刺甚句踊り」は、約200年前から伝播したと地元では言われていますが、もし「定義あいや」の発祥を推定するならば、「江刺甚句踊り」の実質的な古さは更に400年も遡ることになります。
 当地方では、おもに酒宴や酒席に座敷踊りとして踊られますが、盆踊りにも踊られ時には鎮守の祭に境内で踊られることもありました。
 また、歌詞には「甚句踊りは門まで来たや じいさま出てみろ アリャ孫連れて」とあるところから、昔は街路を流して踊ったことがうかがえます。また「甚句」は「神供」の意味だとも言われています。
 日本舞踊が何千人集まって踊っても、ばらばらな孤独者の集合に過ぎないとされていますが、「江刺甚句踊り」には色々な踊り方があり、男女のカップルで踊るところに一番の特徴があり、相手を変えるミキサー形式など「ジンクダンス」として野外レクレーションにも用いられています。